この催しは終了しました

開催日
2022年8月9日(火)〜11月6日(日)
時間
《平日》9:30〜19:00 《日・祝》9:30〜17:00
場所
遅筆堂文庫(川西町フレンドリープラザ内)
料金
無料
月曜休館日(月曜祝日の場合は翌日)

井上ひさし没後10年をきっかけに『十二人の手紙』が再びベストセラーとなった。

〝手紙〟をキーワードに、井上ひさし作品の楽しさを紹介しつつ、その創作の秘密にせまる。


2020年、井上ひさし没後10年を記念して、様々な催しが企画され、また多くの書籍が刊行された。
その特筆すべきことのひとつに『十二人の手紙』が再びベストセラーになったことが挙げられる。
約3ヶ月間で10万部増刷され、読書界の大きな話題となった。
初版単行本帯には

「手紙だけが物語る人生ドラマ・・・ありとあらゆる種類の手紙にあふれる迫真の人間喜劇」

とある。しかし、41年を経ての中公文庫では、書店員による

「マニアだけが知っている 隠れた名作ミステリまさに どんでん返しの見本市だ!!」

のキャプションとなっている。時代とともに、読まれ方も一変したことがわかるだろう。
この連作集の魅力を探るうちに、井上ひさしの隠れた創作技法につきあたることができた。
特に第十編「玉の輿」に注目する。


『十二人の手紙』初版「帯」に寄せた  井上ひさし自身の言葉

たいていの用事が電話で足りてしまうせいか、わたしたちはこのごろあまり手紙というものを書かない。机上に便箋をひろげるのは、たとえば親友への絶交状、女房子どもを置き去りにして他所へ逃げるときの書置き、死を目前にして知人に最後の別れを告げる遺言などを書くとき、すなわち相手と直接に話をするのも辛い、思い余った、苦しいときにかぎられてきているような気がわたしにはする。つまり手紙は「劇的」な情況で書かれることが多くなってきているのではないか。
ここに着目したわたしは、ありとあらゆる種類の手紙を網羅し、合わせて十二篇の物語を創り上げてみようと試みた。



『十二人の手紙』(中公文庫)


しかし、ここには13篇が収められている。この、最後の1篇がくせ者。
英語では13個を俗にa baker's dozen(パン屋の1ダース)という。むかし、パン屋が目方をごまかすと処罰される法律があり、それならパン1個をおまけにつけておこうとなった。言葉あそび好きには格好のアイディア。


9月3日(土)には、井上ひさし研究者で地域おこし協力隊の井上恒さんによるギャラリートークもございます。



ギャラリートークの詳しい内容はこちら


この機会に、ぜひご覧ください。









和田誠が描いた井上芝居のポスター・本の表紙あれこれ 同時開催中



合わせて「ザ・座でみる井上芝居」の展示もしております。


井上ひさしと和田誠の対談記事も展示中です。




井上ひさしプロフィール



1934年11月16日、山形県東置賜郡小松町(現・川西町)に、父修吉、母マスの次男として生まれる。
本名は廈。五歳のときに父が病没。亡父の蔵書を読みながら育つ。特に坪内逍遥訳の「シェークスピヤ全集」と「近代劇全集」を愛読。
仙台第一高校時代には、映画と野球に熱中した。受洗。
1953年、上智大学文学部ドイツ文学科入学。夏休みに母の住む釜石に帰省して休学。国立釜石療養所の公務員などを務めつつ二年余りを過ごした後、外国語学部フランス語学科に復学。浅草のストリップ劇場フランス座の文芸部兼進行係となり、台本も書きはじめる。
戯曲『うかうか三十、ちょろちょろ四十』が芸術祭脚本奨励賞を受賞。放送作家をしながら、大学を卒業。
1964年、NHKの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』の台本を執筆(共作)。その後、五年間におよぶ。「泣くのはいやだ笑っちゃおう」というテーマ曲とともにミュージカル形式の番組は多くの人々に愛された。
1969年、劇団テアトル・エコーに書き下ろした『日本人のへそ』で演劇界デビュー。
1970年、長編書き下ろし『ブンとフン』で小説家デビュー。
1972年、江戸の戯作者群像を描いた『手鎖心中』で直木賞、『道元の冒険』で岸田戯曲賞ほかを受賞。以降、戯曲、小説、エッセイ、批評など多才な活動を続ける。
戯曲は、文学座、五月舎、しゃぼん玉座、地人会、松竹などに書き下ろす。『藪原検校』『雨』『小林一茶』『化粧』ほか、この時期の作品は今も再演され続けている。文章読本『私家版日本語文法』や東北の一寒村が独立する物語『吉里吉里人』はベストセラーになった。
1984年、こまつ座を旗揚げ。旗揚げ公演の『頭痛肩こり樋口一葉』から以降、2009年の『組曲虐殺』まで、こまつ座のために共催を含めて25作品を執筆。
1987年、蔵書を生まれ故郷の川西町に寄贈して図書館「遅筆堂文庫」が開館。以後、校長として生活者大学校を開校してきた。1994年には遅筆堂文庫と劇場が一体になった「川西町フレンドリープラザ」が開館する。その後も続いた寄贈により、資料とあわせた蔵書は現在22万点を超える。
1997年、新国立劇場の柿落としに『紙屋町さくらホテル』を執筆。以後、「東京裁判三部作」他を書き下ろした。
戯曲『父と暮せば』『ムサシ』『化粧』『藪原検校』などは海外公演でも高い評価を得ており、『父と暮せば』は、英語、ドイツ語、イタリア語、中国語、ロシア語、フランス語で対訳本が刊行されている。国鉄民営化、コメ問題、平和と憲法についてなど、社会的な発言も多く、『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』『ボローニャ紀行』など作品も幅広い分野におよんでいる。「九条の会」呼びかけ人、日本ペンクラブ会長、仙台文学館館長、また多くの文学賞の選考委員を務めた。
2010年4月9日、75歳で死去。


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