この催しは終了しました

開催日
2024年4月2日(火)〜7月28日(日)
時間
《平日》9:30〜19:00 《日・祝》9:30〜17:00
場所
遅筆堂文庫(川西町フレンドリープラザ内)
料金
無料
月曜休館日(月曜祝日の場合は翌日)

井上ひさし・こだわりの文房具

 作家の一日、一生の大半を過ごす書斎。晩年の二十年を過ごした書斎は鎌倉にあった。

 1989年鎌倉に住まいを移した井上ひさしは、書斎をどうするかの問いに「四畳半もあればいい」と応えたという。

石川県にあった旧家を求め解体移築し、その大屋根の真下に書斎をしつらえた。

実際は十五畳ほどの部屋となった。机・椅子・数台の書棚、簡易ソファーベッドなどが置かれ、机上には作家が愛して止まない文房具が置かれた。

本を読み、考え、喘ぎながらも文章を紡ぎ出した書斎は至福の時空だったろう。


ことばの大海原を行く操舵室

 万年筆、赤鉛筆がぎっしり入ったペン立て、マーカー、鋏、インク壺、ブロッターと呼ばれるインク吸い取り器、メモ帳、文鎮、ペン皿などが原稿用紙を取り囲んでいる。

エッセイ『ふふふ』に集録されている「自分の好きなもの」10に、「なにも書いていない原稿用紙の束」とある。

書くことが何より好きだった井上の周辺では、こだわりの文房具たちが賑やかに執筆を見守っていた。


井上ひさしと万年筆

井上ひさしのエッセイ『悪党と幽霊』より

 はじめての万年筆
 生れてはじめて万年筆を持ったのは一九四五年十二月二十五日の午後でした。中学三年生、高校受験のためにガリ勉をしていたころのことです。その時分、仙台市の北東の郊外に占領軍の大きなキャンプがあって、養護施設の子どもをよく食事に招んでくれました。その日はクリスマス、そこで特別に贈物をくれたのですが、わたしが貰った靴下の中に、中古のパーカーが入っていたのです。
(中略)
 四、五日、抱寝しました、うれしくて。一ト月ばかり、朝から晩までひたすら字を書いていました、うれしくて。
(中略)
 この万年筆は一九五七年の夏まで保ちました。軸割れは糸で縛って、吸入装置の故障は漬けペン式で補って愛用していましたが、夏の夜、学生寮のもの好きたちと四谷の土手へ、アベックのぞきに行ったときに 落してしまったのです。この万年筆の記憶は、いまふたつの後遺症として残っています。ひとつは字は万年筆でなくてはという思い込み。はじめての万年筆の書き味があんまりよすぎたのです。もうひとつは四谷へ行くたびに土手に登ってキョロキョロする癖。むろんあの万年筆が見つかるはずはありません。












2024年4月13日(土)には、「井上ひさしの書斎」が一般公開の予定です。
ぜひこちらもご覧ください。


ぜひこの機会に足をお運びください。



井上ひさしプロフィール




1934年11月16日、山形県東置賜郡小松町(現・川西町)に、父修吉、母マスの次男として生まれる。
本名は廈。五歳のときに父が病没。亡父の蔵書を読みながら育つ。特に坪内逍遥訳の「シェークスピヤ全集」と「近代劇全集」を愛読。
仙台第一高校時代には、映画と野球に熱中した。受洗。
1953年、上智大学文学部ドイツ文学科入学。夏休みに母の住む釜石に帰省して休学。国立釜石療養所の公務員などを務めつつ二年余りを過ごした後、外国語学部フランス語学科に復学。浅草のストリップ劇場フランス座の文芸部兼進行係となり、台本も書きはじめる。
戯曲『うかうか三十、ちょろちょろ四十』が芸術祭脚本奨励賞を受賞。放送作家をしながら、大学を卒業。
1964年、NHKの連続人形劇『ひょっこりひょうたん島』の台本を執筆(共作)。その後、五年間におよぶ。「泣くのはいやだ笑っちゃおう」というテーマ曲とともにミュージカル形式の番組は多くの人々に愛された。
1969年、劇団テアトル・エコーに書き下ろした『日本人のへそ』で演劇界デビュー。
1970年、長編書き下ろし『ブンとフン』で小説家デビュー。
1972年、江戸の戯作者群像を描いた『手鎖心中』で直木賞、『道元の冒険』で岸田戯曲賞ほかを受賞。以降、戯曲、小説、エッセイ、批評など多才な活動を続ける。
戯曲は、文学座、五月舎、しゃぼん玉座、地人会、松竹などに書き下ろす。『藪原検校』『雨』『小林一茶』『化粧』ほか、この時期の作品は今も再演され続けている。文章読本『私家版日本語文法』や東北の一寒村が独立する物語『吉里吉里人』はベストセラーになった。
1984年、こまつ座を旗揚げ。旗揚げ公演の『頭痛肩こり樋口一葉』から以降、2009年の『組曲虐殺』まで、こまつ座のために共催を含めて25作品を執筆。
1987年、蔵書を生まれ故郷の川西町に寄贈して図書館「遅筆堂文庫」が開館。以後、校長として生活者大学校を開校してきた。1994年には遅筆堂文庫と劇場が一体になった「川西町フレンドリープラザ」が開館する。その後も続いた寄贈により、資料とあわせた蔵書は現在22万点を超える。
1997年、新国立劇場の柿落としに『紙屋町さくらホテル』を執筆。以後、「東京裁判三部作」他を書き下ろした。
戯曲『父と暮せば』『ムサシ』『化粧』『藪原検校』などは海外公演でも高い評価を得ており、『父と暮せば』は、英語、ドイツ語、イタリア語、中国語、ロシア語、フランス語で対訳本が刊行されている。国鉄民営化、コメ問題、平和と憲法についてなど、社会的な発言も多く、『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』『ボローニャ紀行』など作品も幅広い分野におよんでいる。「九条の会」呼びかけ人、日本ペンクラブ会長、仙台文学館館長、また多くの文学賞の選考委員を務めた。
2010年4月9日、75歳で死去。


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